Come Together - The Beatles



メンバー
ジョン・レノン(John Lennon)(1940年10月9日 - 1980年12月8日)(リズムギター

素敵な日本女性オノヨーコさまのだんな様 

ポール・マッカートニー(Sir Paul McCartney)(1942年6月18日 -)(ベース
ジョージ・ハリスン(George Harrison, MBE)(1943年2月24日 - 2001年11月29日)(リードギター
リンゴ・スター(Ringo Starr, MBE)(1940年7月7日 -)(ドラムス


麦わら帽子で 足取りでれでれ
目玉はしょぼしょぼ ロックンローラー
髪を膝まで垂らして
何でも思い通りにやり放題
はだしの足は フットボールみたいだ
モンキーフィンガーで コカコーラをつかみ
「アイ・ノウ・ユー ユー・ノウ・ミー」
ひとつだけ大事なことは自由さ
カム・トゥゲザー 一緒に行こう

うまくチャンスをつかんで ウォルラスのゴム靴はいて
ヨーコを手に入れて 背中がぞくぞく
足の先までびりびりだ
やつのアームチェアに抱かれるとまずいけど
カム・トゥゲザー 一緒に行こう

ローラーコースターに乗って 危ない思い
泥の中に突っ込んで 切ない思い
一と一と一は三だぜ
泥だらけの顔じゃカッコがつかないけど
カム・トゥゲザー 一緒にいこう


ビートルズは世界中で最も広く知られ、最も成功したロックバンドである。ギネス・ワールド・レコーズでは最も成功したグループアーティストとされる。1985年で世界的にビートルズのCD、レコード総売り上げは10億枚以上。イギリスリヴァプールで結成され、世界的な人気を博し1960年代を代表するスターとなると共に、現代のポピュラー音楽の流れを変えた。1962年レコードデビュー。1970年解散。

外貨獲得に大きく貢献したことから、1965年にエリザベス2世から(当時、ロックバンドとしては異例の)MBE勲章が授与された。

世界的アイドルとして成功を収める一方、彼らの作り出した音楽は1960年代以降のロック・ポップスシーンに多大な影響を与えることとなった。その楽曲の普遍性、革新性は現在に至るまで高く評価されており、現代音楽の金字塔として揺ぎない地位を保っている。

その解散後、イギリスで新たな人気アイドルが登場する度に「第2のビートルズ」という呼び名で表現された。またFab4-ファブ4と言う呼び名や不世出のロックグループと呼ばれる。

ビートルズの音楽的ルーツは基本的に(チャック・ベリーリトル・リチャード、シュレルズなど)米国黒人のリズム・アンド・ブルースロックンロール、およびそれをルーツとした(エルヴィス・プレスリーバディ・ホリーなど)白人のロックンロールと言われている。
1957年3月、ジョン・レノン、バンド「クオリーメン」結成。

1957年7月6日、ウールトンのセント・ピーターズ教会で行われたクオリーメンのコンサートをポール・マッカートニーが観る。共通の友人の紹介によりジョン・レノンと対面。ポールはギターを弾きながらエディ・コクランの「トゥエンティ・フライト・ロック」を完璧に歌い、ジョンに誘われクオリーメンのメンバーになる。

1958年2月6日、ポールの紹介でジョージ・ハリスンがクオリーメンのオーディションを受ける。「ローンチー」を完璧に弾きこなしバンドに加わる。

1959年1月、バンドのメンバーはジョン、ポール、ジョージの3人だけになる。

1959年10月、バンド名を「ジョニー&ザ・ムーン・ドッグス」とする。

1960年1月、スチュアート・サトクリフがジョンに誘われバンドに加入(リヴァプール・カレッジ・オブ・アート時代のジョンの親友、もともと画家志望で音楽をやっていたわけではないが、絵が売れるとその金でベースを買ってバンドに入るようにジョンが誘いバンドに加入。その為そこからベースを覚えていったという、ベースの腕前は素人)。バンド名が「ザ・シルヴァー・ビートルズ」になる。

1960年4月23、24日、ジョンとポールの2人は「ナーク・ツインズ」というユニット名で、ポールのいとこ夫婦が経営するパブで演奏する。

1960年5月、ソロシンガーのバックバンドをつとめるツアーに出る(この時、それぞれが芸名をつけていた。ジョン「ロング・ジョン」、ポール「ポール・ラモーン」、ジョージ「カール・ハリスン」、スチュアート「スチュアート・ド・スタール」)。

この頃はドラマーが次から次へと入れ替わっていた、ドラマーのいないステージではポールがドラムスを叩いたこともあった。

1960年8月、ドイツハンブルクでの仕事が入り新たにドラマーが必要になり、シルヴァー・ビートルズが出演していたカスバ・クラブの経営者の息子ピート・ベストがドラムスをやっていたので、メンバーとして誘い入れる。バンド名を「ザ・ビートルズ」とする。ハンブルクではリンゴ・スターがドラムスを努める「ロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ」も出演していて、リンゴと付き合うようになる。

1961年4月〜7月、この2度目のハンブルクでの巡業の途中で、スチュアートが画家に専念するために脱退。

1961年6月22、23日、ハンブルクではトニー・シェリダンのバックバンドとしてもステージに上がっていたことが縁で、ドイツでシェリダンのバックバンドとしてレコーディングに参加(ビートルズのポリドール・セッション)。レコード会社は勝手に「トニー・シェリダン&ザ・ビート・ブラザーズ」とバンド名をビートルズからビート・ブラザーズにかえて発売。「マイ・ボニー」などの他、シェリダン抜きでジョン・レノンのヴォーカルの「いい娘じゃないか」インストゥルメンタルナンバーのビートルズのオリジナル曲「クライ・フォー・ア・シャドウ」もレコーディングされた。

1961年12月10日、ブライアン・エプスタインマネージャーになることが決まる。

1962年1月1日、デッカ・レコードのオーディションを受けるが不合格となる。

この頃、ピートがステージを休むことが数回あり、そんな時はリンゴが代役としてドラムスを叩いていた。

1962年4月10日、スチュアート・サトクリフが脳内出血により死去。

1962年6月、パーラフォン・レーベルとレコーディング契約を結ぶ。

1962年8月15日、ピート・ベストを解雇。リンゴ・スターがビートルズに加入。

1962年10月5日、レコードデビュー。

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